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国内モータースポーツの黎明期: |
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1958年夏。 18歳の高橋国光はBSA350を駆って浅間山“第一回全日本モータ-サイクル・クラブマンレース”に参加。350ccクラスに出場し、1周9.351kmの火山灰の未舗装路を、降りしきる雨の中500ccクラスのライダーよりも速いペースで駆け抜ける。 鮮烈なデビューウィン。 さらに翌年の大会にも優勝し、2年連続優勝を達成。 高橋の活躍は、日本の工業技術の優秀性を世界の檜舞台で証明しようとしていた本田宗一郎氏の耳に届き、1960年から「ホンダスピードクラブ」の一員として世界GPに挑むこととなる |
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Hondaと共に: |
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世界選手権ロードレースデビュー戦のソリチュードは6位。 しかし参戦2年目ドイツ・ホッケンハイムにおいて、ゼッケン100、高橋の駆るホンダRC162は日本人初の世界選手権250ccクラス優勝を飾る。 1961年5月14日は、日本のモータースポーツ史に永遠に刻み込まれた。 因みにチーム国光のゼッケンナンバー100は、ここにルーツを辿る。 また同年の第9戦アルスターGPでは125ccクラスでも優勝を記録した。 1962年ホンダは高橋の世界選手権フル参戦を決めた。 デイトナのノンタイトル戦3クラス制覇を皮切りに、スペインGP、フランスGPの125ccクラスを連覇。 そして世界GP発祥の地スコットランド・マン島TTレースに臨んだが、決勝のユニオンミルズ・コーナーで転倒。 生死を彷徨う重傷を負った。翌年に復帰し14レースに参戦。 64年のフランスGPを最後に2輪レースの一線から退いた。 |
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ライダーからレーシング・ドライバーに: |
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1965年4輪に転向。 日産ワークス・チームに迎えられる。 当時日産の監督であった難波靖治氏がホンダスピードクラブ河島喜好監督を訪ね、田中健二郎、高橋国光、北野元の3選手の移籍を打診したところ「この3人はホンダが育てた立派なライダーです。 4輪は初めてですが難波さんに預けますから大切にレーシング・ドライバーとして育ててください」と快諾した。 レーシング・ドライバー高橋国光の誕生であった。 |
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日本GP伝説: |
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移籍後しばらくはツーリングカーレースを戦っていたが、やがてニッサンはプリンス自動車を吸収。 高橋はプリンスが開発し、ニッサンが熟成させたプロトタイプ・レーシングカーR380、R381、R382のエース・ドライバーとして、当時最大のイベントであった日本GPに出場。 幾多の名勝負を生み伝説を残した。 中でも67年生沢徹のポルシェ・カレラ6を追走する、ニッサンR380の雄姿と高橋の豪快なドライビングは、今なお語り継がれている。 |
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GT-Rとの出会い: |
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1970年にツーリングカーレースに復帰し、スカイラインHT GT-Rと出会う。 するといきなり全日本ドライバー選手権5戦すべてを制しチャンピオン(TⅡ)を獲得。 翌年には日本GP優勝(T-b)。さらに1972年の激しい風と雨が叩きつける富士スピードウェイで開催されたスーパー・ツーリンカー・レースで優勝を飾り、GT-Rにとって記念すべき50勝目を記録。 高橋は「GT-R使い」と称された。 |
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フォーミュラカー・レース・デビュー: |
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1975年35歳にしてフォーミュラカー・レース・デビュー。 1977年鈴鹿F2000シリーズ3勝を挙げ初代チャンピオン獲得。 また同年初開催のF1日本GPに、急遽ドライバーとしてティレル007/DFVを駆り出場。 旧型車でのエントリーにも拘らず、日本人最上位9位完走を果たす。 |
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1978年: |
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全日本F2選手権シリーズJAF鈴鹿GP優勝
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1981年: |
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富士GC 2勝を挙げシリーズ2位
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1984年: |
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全日本耐久選手権シリーズ2勝
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1985年-1987年: |
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3年連続全日本ドライバー選手権耐久部門チャンピオンを獲得。
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1986年: |
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全日本ツーリングカー選手権1勝を挙げシリーズ3位
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1987年: |
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全日本ツーリングカー選手権2勝を挙げシリーズ6位
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1988年: |
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挑戦3年目のルマン24h耐久レースを9位(Gr.C)で初完走
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1989年: |
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全日本スポーツ・プロトタイプカー選手権チャンピオン |
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1990年: |
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全日本F3000選手権シリーズ9位 |
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チーム国光始動 |
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1992年、「チーム国光」監督兼ドライバーとしての活動をスタート。 土屋圭市とのコンビで全日本ツーリングカー選手権にエントリー。 ストリートで鍛えた人気ドライバーと、GT-R使いの名手の復活は大きな注目を集め、人気No.1チームとしてサーキットを盛り上げた。 翌年のオートポリスでチーム国光・GT-Rは、このシリーズ初優勝を記録。 |
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ルマン24H優勝 |
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1994年、ルマン24時間耐久レースにHonda NSXを駆り参戦。 ドライバーは高橋国光、土屋圭市、飯田章の日本人3人。 GT2クラス9位(総合19位)でレースを終了。 続く1995年、高橋の初挑戦から10年、通算7度目のルマン。 ピットスタートから幾多の試練を見事なチームワークで乗り越え、チーム国光・HONDA NSXはGT2クラス堂々の優勝(総合8位)を飾る。日本車、日本人ドライバー、日本人スタッフによる史上初の快挙だった。 |
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1994年-1995年: |
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全日本GT選手権に土屋圭市とポルシェ911RSターボで参戦。
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1996年: |
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同シリーズにHonda NSXで参戦。 パートナーは、土屋圭市。
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1997年: |
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大幅なモデファイを受け生まれ変わったNSXで、飯田章と参戦。
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1998年: |
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第6戦美祢で同シリーズ初優勝。 |
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1999年: |
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第2戦富士で優勝。 選手権最後のレース第7戦もてぎで9位入賞を果たし11月28日オートポリスのGTオールスター戦を最後に、59歳で現役を引退。(通算成績487戦71勝)
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「チーム国光」代表・監督に就任。 |
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